千代田日誌

千代田区在住、考えごとを書き置きする場所。

嫌い、という問題。

この人、嫌い。という心の動きについて考えてみたい。

こいつ嫌い、なんかうざい、ようわからんけどその人のことを思うと心がこう、どんよりするし、ズシンとくるものがある。そういう感覚。

文章に起こして見えてくるのは、好きの反対の動きということ。

好きな人のことを考えると心がドキドキして、気分が良くなって、景色が明るくなる。楽しくなる。恋愛だけでなく好きな友達や尊敬する人も、程度の差こそあれ、とりあえず心にズシンとくることはない。軽やか。

 

嫌いという感情も程度の差がかなりあるものやけど、私がよく抱く「嫌い」という感情はかなりカジュアルだ。私に対してなんの実害もなく、相手は私に嫌われてるなんて想像もしてないやろう程度に距離のある知人で、ただその人について私側から見える人物像が非常に、私にとってイライラする不快なものである、というもの。

相手からすれば何もしていないのに、存在しているだけの事実を持って嫌われることになる。大変迷惑でしかない。当然、私も相手に嫌いという感情を見透かされないよう最大限努めており、万が一にも見透かされることがないように、常に適切な距離感を図ることに全神経を集中させている。そんな程度の「嫌い」。

 

更に言うと、私はこの程度の「嫌い」な人のことを考えることが好きだ。

嫌いな人のことを考えると心がどんよりし、ズシンと重くなると前述したが、この感覚が結構クセになる。なぜ嫌いなのか詳細に分析し、嫌いな相手に思いを馳せる、どんよりと湿った時間を過ごすのが好き。実に陰険で暗い趣味。

 

と言うことで、最近私の心を掴んで離さない、お気に入りの嫌いな人物像をヒントに、嫌いという心の動きについて考えてみたい。

 

いつもニコニコ愛想笑いを浮かべている大人しい人がいる。

自分の意見をいうこともなく、相手の話に質問をすることもなく、ただ一人になりたくないから浮きたくないから、とりあえず誰かが発言するたびに大声で笑う。そんな人だ。

私はこの人を見かけるたびに、胸が締め付けられるような、なんだか苦しいような、そんな気分になって、やがてイライラしてくる。

特に笑うタイミングでないところでも笑うから、おそらく話者の話に大した興味もなく内容は聞いていなくて、ただ文末だと思ったタイミングで笑い声を上げる。きっと一人でいることが好きなタイプで、でも集団から外れていると思われたくなくて、一人でいることができない、そういう人。同い年とは仲良くなれなくて、優しそうな年上の人にばかりひっついて、一心に笑い声を担当している、そんな人。

私はその人の本当の声が知りたくて、何を考えているのか、色々と質問をしてみたことがある。その人は吃りつっかえながらも、結局は質問を返してくるのが精一杯で、自分の意見を語ることはついぞなかった。その人はいつも言葉がつっかえたように話し、日常会話すら、まるで大衆の面前に突然晒されたように緊張している。コミュニケーションにおそらく小さな頃からなんらかの問題があっただろうし、きっと大変な苦労をしたきたのだろうと予想される。もちろんそれは全くその人の責任ではない。

見方を変えると、その人はコミュニケーションが平均より遥かに苦手にも関わらず、なんとか社会に馴染もうと日々多大な努力をしている。それが過剰な笑い声として発揮されているのである。

 

さて、なぜ、私は健気なその人の存在に過剰にイライラしてしまうのかについて、考察したい。

なぜ、優しく受け入れることができないのだろう。当然、社会的にみると完全に受容し見守っている。私が言及したいのは、心の深い部分ではイライラし、拒絶している、私の心にのみ隠されている事実についてである。これこそが「嫌い」の原点なんだろうと感じる。

 

まず、おそらく理由もなく「好き」という感情が湧き上がってくるのと同様に、「嫌い」もまた生理的なもので理由なんてないのだと思う。私が嫌いと感じるあの人の特性は、きっと誰かにとって好きそのものであり、可愛く、愛おしく、もしくは尊敬し、憧れる特性なのだろうと確信する。犬が好き、虫が嫌い、あるいは赤が好き、青が嫌い、つまりはそれと変わらないレベルの感情なのだと思う。そういう意味で、好きから嫌いに変容した「嫌い」はもっと深いもので、今回の考察対象である「嫌い」は最初から、あるいは多少知ったらわかる程度のものである。

 

次に、嫌い、という心の動きをなるべく避けるには、何ができるのだろう。クセになると言ったが、多くの人にとって(もちろん私にとっても)、嫌いという感情は精神衛生上、できれば避けたいものであることは確かだ。

生理的な避けられない問題である以上、とりうる策としてはなるべくその対象と顔を合わせない、これに限る。ここで重要なのが「フレンドリーになりすぎない」ことかと思う。

社会的に良好な人間関係を保とうとすると陥りがちな罠に、とりあえず全員と仲良くなろうとする行動があると思う。この行動が自分を苦しめる。

 

例えば虫が嫌いな人にとって山道なんて地獄でしかないが、現代社会において体裁良く生きていくことは虫嫌いが半袖で山に入っていくようなものだと思う。

まずは、嫌いと感じる人と自分はどう頑張っても仲良くなる未来はないと知るべきである。

その上で、嫌いと感じる人には、嫌われた方がいいことに気づくべきである。虫に嫌われるとこが虫嫌いにとって最高の環境であるように。

現実に、あまり話さないように適度な距離をとっている相手から嫌われることは困難ではあるから、とりあえず話しかけにくい、フレンドリーでない人物だと思わせておくことが大人の対応だ。笑顔は禁物。間違っても好かれてはいけないのである。

 

と、ここまで書いたが、私はこの嫌いな人とは週に1度は少々話す必要があり、おそらくまあまあ仲が良いと思われている。信条を貫くって難しいものだ。

 

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課題

①嫌いという感情をなくすことはできるのだろうか。できるとすれば、その方法は何か。

②存在そのものがストレスという人がいる場合、それはひとえに自分の心の問題である。◯か×か。

③嫌いな人と関わらないといけない場合、心の平安を保つために、とりうる対抗策を考えよ。