結婚式の祝儀ほど時代遅れな文化はない。
友達が多い女性は、大体25歳くらいまでに1度は結婚式に呼ばれる。
初めての結婚式は舞踏会みたいで着飾るのも楽しく、コース料理は美味しく、参加費3万円の価値はあると思える体験だ。
が、しかし。
大体27歳頃に、いわゆる結婚ラッシュがくる。
若い頃の驚きや楽しさは1ミリもなくなっている自分に気づく。
「他人の結婚式に3万円の価値はない」
その事実を伝えることができれば、どれだけ楽かと思う。
・・・
そもそも、友達が既婚であろうが独身であろうが、何の関心もない人が大半だろう。
彼氏がいようが彼女がいようがアセクシュアルであろうが2次元キャラだけを愛していようが法定婚だろうが事実婚だろうが、知るか!
お前がお前であることに変わりはない。
なのになぜ、結婚を祝わなければならないのか、しかも3万円も!?狂っている。
おそらくその心境になれるのは家族だけだろう。
なぜなら家族は結婚によって姻族が増えるのだから。それは大ごとだ。
そこに他人である友人を巻き込まないでほしい。こちとら個人として付き合っているんだから、君の家族事情には何の関心もないよ。
・・・
つい先日、結婚式をしないで結婚した友人がいて。
今まで参加してきた「結婚式を挙げた友人」から何ももらえないらしく。
その人たちは本気で「結婚式の参加費としての3万円」と信じてるんだなと。
自分のドレスお披露目会に3万円の価値があると信じて疑わないその自己肯定感の高さはどこからくるのか?おしえてくれ。
自分が結婚式絶対やらないと決めているのに結婚式に呼ばれて祝儀を渡す私達は、
断りたい、どうやって断ろう、ああ断りにくい、、という葛藤を経て、それでもその浮かれた主催者の顔を立てるために、3万円をドブに捨てたつもりで参加していることを忘れないでほしい。
素人のドレス姿を見るディナーショーに3万円の価値などないことを、どうか忘れないでほしい。1桁違うよ。
そして祝儀に3万円もらったら、その人が結婚式しなくても同額を包め。人として当然だ。
「1.5万円は料理代、5,000円は引き出物代だから、1万円渡せばいい」
馬鹿なのか?
そもそも、結婚式は「招待」だ。祝儀は参加費ではない。日本語読めないのか?
料理代はテメェらの負担で、その代わり休日返上で着飾って出てやってるんだ。
そして引き出物は祝儀へのお返しだ。
だから式をしようがしまいが、祝儀3万円には祝儀3万円だ。それに対するお返しは引き出物と同等のもので良いはずだ。
なぜお前たちの結婚式費用を私らがカンパして負担して当然と思ってるんだ。
・・・
結婚式プランナーとかいう邪悪な職業が、
「結婚式に呼ばれて迷惑な人なんていませんよ!」
「結婚式には会いたい人を呼びましょう!疎遠になってる人とも、良い機会です!」
とか馬鹿みたいなこと言うらしいけど。
疎遠になってる人に3万円献上して1日献上して髪もドレスもちゃんとして来いって、その上で会話する機会もないって。
「疎遠になってるなら搾り取ってから完全に縁を切りましょう!」と言う提案でしょうか?
それを迷惑以外の言葉でなんて表現するの?
まさか嬉しい、光栄とか言いませんよね。。神にでもなったの?
・・・
行かなければいいじゃんって話ですけどね。
実際私はほぼ断っているし、今後も断り続ける。
ただ、あまりにも結婚式の祝儀について間違った認識が多いので、本音を綴ってみました。
他人の結婚式に3万円の価値なんてないよ。
結婚式に呼んだなら、その友達が結婚式してもしなくても、結婚の際には3万円包めよ。
その覚悟がないなら呼ぶなよ。
少しでも、頭の中お花畑な新婚さんに伝わるといい。
以上
2023.4.14Fri 今日の朝刊
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アマゾン、生成AI算入
- アマゾンが数ヶ月以内に「文章を自動でつくる」AIを一般提供するらしい。
- 電子メールやチャットサービスの文面を自動で作ることができる。チャットは自動返信できる企業も増えているけど(楽天とか)、この間、NIKEの自動チャットを利用したら、人間が返していて非常に遅かった。需要はまだまだあるだろう。電子メールの自動機能も、OutlookやLINEは軽い返信なら既にあるけど、業務用のメールの自動返信ドラフトなんかが返信ボタン押した瞬間に生成されていたら、すごくいいよね。このレベルに行き着く企業はどこかな?
- マイクロソフト、Google、アマゾンと、競ってAI開発が進んでいる。
- チャットGPTリリースから1ヶ月くらいで、いやぁ、世の中はAIに湧いている。iPhoneが出た時のような盛り上がり方だ。2023年4月がAI元年になるのだろうという予感がする。弁護士、税理士、会計士、内科、教師、ほとんど全ての職業でAIの方が優秀となる日はすぐそこに。
- ま、だからと言って、優秀な奴が仕事を奪うかというとそうでもなく、世の中は非効率が好きなので、だからいまだに非効率の極みである国会議事堂で国会議員が一堂に会して予算決めなんてやっているのである。守るべきは「生産性や効率」なんてケチなものより「既得権益」なのであり、いくらAI様といえど、人間の底知れぬ愚かさには叶うまい。
- 日本の経営は社会主義的なところがあるのでしばらく愚かなままでいてくれようが、何分にも米国企業はAIを導入し、ほとんど全ての職業がAIに変わるだろう。益々生産性が向上し業績が上がり、国際的な価格競争にも強い企業が群を抜くだろう。続々と失業率も増えていくだろう。南無三。
- クリエイティブ職が聖域だと言われるが、絵画や音楽は既にAIが著しく強い。ただし漫画や小説は生き残るだろう。論文も、開発も。要はデータの丸呑み、吐き出しが全てのAIにできないことは「0から生み出す」ことであり、絵画や音楽にしても真似事でなく本来のクリエイティブ層に影響はないものと思われる。
- 私は税理士、弁護士、会計士業界のため、「ああ、そんな職業もあったね」と言われること必至である。「受付嬢」の方がまだ生き残りそうである。
嫌い、という問題。
この人、嫌い。という心の動きについて考えてみたい。
こいつ嫌い、なんかうざい、ようわからんけどその人のことを思うと心がこう、どんよりするし、ズシンとくるものがある。そういう感覚。
文章に起こして見えてくるのは、好きの反対の動きということ。
好きな人のことを考えると心がドキドキして、気分が良くなって、景色が明るくなる。楽しくなる。恋愛だけでなく好きな友達や尊敬する人も、程度の差こそあれ、とりあえず心にズシンとくることはない。軽やか。
嫌いという感情も程度の差がかなりあるものやけど、私がよく抱く「嫌い」という感情はかなりカジュアルだ。私に対してなんの実害もなく、相手は私に嫌われてるなんて想像もしてないやろう程度に距離のある知人で、ただその人について私側から見える人物像が非常に、私にとってイライラする不快なものである、というもの。
相手からすれば何もしていないのに、存在しているだけの事実を持って嫌われることになる。大変迷惑でしかない。当然、私も相手に嫌いという感情を見透かされないよう最大限努めており、万が一にも見透かされることがないように、常に適切な距離感を図ることに全神経を集中させている。そんな程度の「嫌い」。
更に言うと、私はこの程度の「嫌い」な人のことを考えることが好きだ。
嫌いな人のことを考えると心がどんよりし、ズシンと重くなると前述したが、この感覚が結構クセになる。なぜ嫌いなのか詳細に分析し、嫌いな相手に思いを馳せる、どんよりと湿った時間を過ごすのが好き。実に陰険で暗い趣味。
と言うことで、最近私の心を掴んで離さない、お気に入りの嫌いな人物像をヒントに、嫌いという心の動きについて考えてみたい。
いつもニコニコ愛想笑いを浮かべている大人しい人がいる。
自分の意見をいうこともなく、相手の話に質問をすることもなく、ただ一人になりたくないから浮きたくないから、とりあえず誰かが発言するたびに大声で笑う。そんな人だ。
私はこの人を見かけるたびに、胸が締め付けられるような、なんだか苦しいような、そんな気分になって、やがてイライラしてくる。
特に笑うタイミングでないところでも笑うから、おそらく話者の話に大した興味もなく内容は聞いていなくて、ただ文末だと思ったタイミングで笑い声を上げる。きっと一人でいることが好きなタイプで、でも集団から外れていると思われたくなくて、一人でいることができない、そういう人。同い年とは仲良くなれなくて、優しそうな年上の人にばかりひっついて、一心に笑い声を担当している、そんな人。
私はその人の本当の声が知りたくて、何を考えているのか、色々と質問をしてみたことがある。その人は吃りつっかえながらも、結局は質問を返してくるのが精一杯で、自分の意見を語ることはついぞなかった。その人はいつも言葉がつっかえたように話し、日常会話すら、まるで大衆の面前に突然晒されたように緊張している。コミュニケーションにおそらく小さな頃からなんらかの問題があっただろうし、きっと大変な苦労をしたきたのだろうと予想される。もちろんそれは全くその人の責任ではない。
見方を変えると、その人はコミュニケーションが平均より遥かに苦手にも関わらず、なんとか社会に馴染もうと日々多大な努力をしている。それが過剰な笑い声として発揮されているのである。
さて、なぜ、私は健気なその人の存在に過剰にイライラしてしまうのかについて、考察したい。
なぜ、優しく受け入れることができないのだろう。当然、社会的にみると完全に受容し見守っている。私が言及したいのは、心の深い部分ではイライラし、拒絶している、私の心にのみ隠されている事実についてである。これこそが「嫌い」の原点なんだろうと感じる。
まず、おそらく理由もなく「好き」という感情が湧き上がってくるのと同様に、「嫌い」もまた生理的なもので理由なんてないのだと思う。私が嫌いと感じるあの人の特性は、きっと誰かにとって好きそのものであり、可愛く、愛おしく、もしくは尊敬し、憧れる特性なのだろうと確信する。犬が好き、虫が嫌い、あるいは赤が好き、青が嫌い、つまりはそれと変わらないレベルの感情なのだと思う。そういう意味で、好きから嫌いに変容した「嫌い」はもっと深いもので、今回の考察対象である「嫌い」は最初から、あるいは多少知ったらわかる程度のものである。
次に、嫌い、という心の動きをなるべく避けるには、何ができるのだろう。クセになると言ったが、多くの人にとって(もちろん私にとっても)、嫌いという感情は精神衛生上、できれば避けたいものであることは確かだ。
生理的な避けられない問題である以上、とりうる策としてはなるべくその対象と顔を合わせない、これに限る。ここで重要なのが「フレンドリーになりすぎない」ことかと思う。
社会的に良好な人間関係を保とうとすると陥りがちな罠に、とりあえず全員と仲良くなろうとする行動があると思う。この行動が自分を苦しめる。
例えば虫が嫌いな人にとって山道なんて地獄でしかないが、現代社会において体裁良く生きていくことは虫嫌いが半袖で山に入っていくようなものだと思う。
まずは、嫌いと感じる人と自分はどう頑張っても仲良くなる未来はないと知るべきである。
その上で、嫌いと感じる人には、嫌われた方がいいことに気づくべきである。虫に嫌われるとこが虫嫌いにとって最高の環境であるように。
現実に、あまり話さないように適度な距離をとっている相手から嫌われることは困難ではあるから、とりあえず話しかけにくい、フレンドリーでない人物だと思わせておくことが大人の対応だ。笑顔は禁物。間違っても好かれてはいけないのである。
と、ここまで書いたが、私はこの嫌いな人とは週に1度は少々話す必要があり、おそらくまあまあ仲が良いと思われている。信条を貫くって難しいものだ。
***
課題
①嫌いという感情をなくすことはできるのだろうか。できるとすれば、その方法は何か。
②存在そのものがストレスという人がいる場合、それはひとえに自分の心の問題である。◯か×か。
③嫌いな人と関わらないといけない場合、心の平安を保つために、とりうる対抗策を考えよ。
働くって、なぁに?
私にとって働くってなんだろう。ここ数ヶ月、それが思考の中心テーマになっている。
①お金のため、それはそう。
でもお金のためだけやったら、なんでこんな月曜の朝が憂鬱な人が多いんやろう。
お金のために働くって、本心から割り切って働いているのなら、なんで仕事で鬱病になる人がいるんやろう。
だってお金のために働くんやったら、ほんまに今月の生活費のために最低限稼ぐんやったら、上の無茶ぶりなんて一切シカトして、下に教えたりなんてせんで、同僚との円滑な関係構築なんて要らんくて、黙々と自分の仕事で結果出せば給料もらえるやん。なんなら正社員なら結果出さんくても貰えるやん。
②承認欲求のため、これもうっすら隠れてると思う。
無茶振りに応えて褒められるとか、下に教えて感謝されるとか、同僚の話を聞いて自分は必要とされているとか、そういった承認欲求は働くことの副産物として、確かにある。
社会に必要とされている、それで自信なり人生の意義なりを見出している層はいると思う。
けどこれは本来の働く目的ではないし、正直空気に飲まれてるだけで、うっすい薄い出涸らしで淹れたコーヒーみたいなもんをありがたがって啜ってるようなもんとちゃうやろか。
お金のため、はほぼ全員が持っている感情でそれは健全で正しい。けど、この承認欲求を仕事に求めている人は精神面、気をつけたほうがいい。
なぜならそれって働くことの本来の目的と違うし、もしそれが本来の目的やという人がいるんなら(そしてそういう人って気づいてないけどめっちゃ多いと思う)、稼ぐために働いてんねやろって、思い出して、もっと気楽に働くを考えたほうがいいな、と思う。
そもそも承認欲求を自分がコントロールできない要因(他人からの評価とか、感謝とか、仲間意識()とか)に求めようとすること自体が危うい。承認欲求は裏切らない確実なもの(猫とか犬とか、筋肉とか、給料そのものとか、金で買えるサービス全般とか)で満たせるように意識しないと、絶対憂鬱になるわなー。
③暇やから、時間潰し。
これは健全やし、堂々と座右の銘にすべき、働くってことの本来の姿かもしれんと最近思う。毎日やることなくても暇やし、ずっと趣味に没頭してたら飽きるし、適度なストレスないとボケそう、なんやかんやお金はあって困らんし、いっちょはたらくかーっていう感じ。
ここ数ヶ月、就活もせず無職やって、日がな一日好きなことばっかりして過ごしてみて、めっちゃ実感した。働かんと、暇。
趣味とか勉強とか(勉強も趣味やけど)色々手出して、普段から人に会ってるから、なんやかんややることはあるんやけど、やっぱ働いて、自分が社会になんらか関与してることって、趣味にも勝るほど、結構楽しい。
結論。私にとって働くとは、めっちゃ楽しい人生の暇つぶしである。そうあるべきである。
好きなことを仕事にする、とかあるやん。でも好きなことじゃなくてもさ、そもそも働くって行動自体が私にとってはめっちゃ楽しいし、その気持ちを大切にしていこ。
辛くなってきたらやめたらいい。開業してるんやったら閉じたらいい。
楽しむって結構働く上でも大切やしな、働く上で適当マインドって、大切。
***
課題
①実際問題、働くのを楽しんでる社会人なんて少数派である。それはなぜか。
②辛くても会社を辞められない人に、解決策を提示せよ。
③働くことを楽しい暇つぶしと捉える社会人が増えた場合、起こりうる課題を提示せよ。
なお、上記考察は貧困層には当てはまらず、それは全く別の問題として考えたい。
仕事とは人生の暇つぶしである
こんにちは、松です。
今日は「ある程度蓄えがある人にとっての仕事の意義」というトピックについて、考えてみたいと思います。
貴方は、仕事をしていますか?
おそらく多くの方がYesと答えるでしょう。
仕事とは、何でしょうか?
お金をもらえる行動のみが仕事でしょうか?
私は「社会の役に立つこと」全般が仕事だと考えます。
なので子育ては仕事です。子供は社会の未来ですから。
ボランティアで社会の役に立つことも仕事です。
現在、私は無職です。
私のライフワークバランスは少々変わっていて、数年がむしゃらに働いて目標額を貯金して、退職してしばらく無職ライフをエンジョイし、飽きたらまた働く、それを繰り返します。
が、今回は数ヶ月で飽きてるんですよね、無職生活に、、
お金の不安なく暮らせるなら普通働かないでしょ、と思っていたのですが、否、暇!
一つには新型コロナで気軽に海外に行けないため国内でやる事がない、とも言えますが、
仕事って人生の暇つぶしの役割が大きいんだな、とここ最近気づいたわけです。
だってみなさん、何のために働いていますか?
多くの方は「生活のため」と答えるでしょう。
でも、そう答える人のうち少なくない割合で、数年働かないでもやっていける蓄えがある人はいるはずです。
もし実家など家賃がかからない拠点がある場合、その蓄えすら不要です。
けど働く。休まず働く。辞めずに働く。
それって、どうして?
今回無職になってその行動理由が掴めた気がします。そう、人間にとって暇は苦痛。
仕事をしていると、時に眠い目を擦って、時に怒られ、時に心を病み、体を壊し、ストレス社会に曝されますが、暇とは向き合わずに済みます。
睡眠時間さえも満足にとれないほど、常に忙しい生活を送れます。
それは自分の内面に向き合わなくて良い生活とも言えるでしょう。
時間を持て余す程の暇は、自分の時間の価値を問いただしてきます。
それは自分が人生を放棄していることに気づく体験であり、思いのほか辛い。
仕事を通してその時間をお金に変えることで、持て余している自分の時間を「忙しい」に換えられる。ついでにお金ももらえる。
ああ、だから私は仕事をしていたのか、と気づきました。
好きで仕事をしている人、自己実現のために仕事をしている人は立派ですが、根本は同じで、
結局仕事がないと人間は暇なのだと思います。
ただ、どうせ同じ暇つぶしなら辛いより楽しい方がいいことは間違いない。
ところで私は今まで仕事を辛いものと考えたことはなく、基本的に学びの多い楽しい時間として過ごしてきました。
ただ私にとって楽しい感覚の持続期間が長くて3年程度なので、基本的に同じ仕事をずっとやるのは無理です。
暇つぶしのために仕事があると考えると、仕事に真面目すぎる必要はないと思えます。
一方でもっと有意義な時間の使い方ができる人、そう、趣味がある人は強いですね。
仕事以外に使いたい時間がある、これほど恵まれた人生を生きている人はそうそういないですよ。羨ましいです。
私もこの無職期間に何か趣味に出会えますよーに!